tamutenの日記

塾講師はやめました。今はプログラマーやってます。

努力について思ったことがあるので書く

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努力について思ったことがあるので書きます。

 

 

『努力』っていうのはどれくらいのことを指すのでしょうか。

『努力』のレベルにも差があると思ったんです。

 

例えば、勉強を頑張るにしても、

定期テストのために頑張るのか、

受験で志望校に合格するために頑張るのか、

人にやれと言われたから頑張るのか、

好きだから自然と頑張ってしまうのか。

 

いろいろ考えられると思います。

 

受動的努力と能動的努力

 

まず、努力とは受動的な努力と能動的な努力に分類されるんではないかなと思います。

 

例えば、家庭教師で生徒に教えているとして、

その生徒が、「宿題を~を…までにやってきて」と言えば、やってくるが、

何も指示しなかったら何もやらない、みたいな状態。

これを受動的な努力と呼ぶのではないかなと思います。

まだまだ自分の頭で考えるという習慣がついていないからそういうことになるのではないかなと思います。

 

能動的な努力とは、

好きだから自然と頑張ってしまう。

例えば料理なんかをもっとうまく作れるようになりたい、みたいな。

だからいろんな料理を作ってみたり、うまく作れたと思ったらクックパッドに投稿したり、

やりたいことが内からみなぎってくるものです。

 

結果を求められることに対しての努力は苦しいのではないか?

 

それとまた、結果を求められるものに対しての努力ってまた違うものだと思います。

さっき例に挙げたように、受験で志望校に合格するための努力。

これは目標がはっきりしている。でも、その目標が揺らいだ時に苦しむのではないかなと思うことがあります。

 

例えば、『ビリギャル』のさやかちゃん。

彼女は最初こそ勉強して自分の学力がどんどん上がっていくのを楽しんでいたようですが、

慶應の受験が近づくにつれ、模試の判定結果がよくない。

目前に迫ってくる受験。それまでに結果を出さなければならない、というプレッシャーなど。

非常に彼女自身苦しんでいたように思えました。

それで、成績がなかなか良くならないから、目標を下げてしまいそうになる。

やっぱり無理なんじゃないかと考えてしまう。

 

そのように、結果が求められる努力というのは苦しいものなのではないかと思います。

まだ、受験では人生が決まるわけではないからそこまでではないにしても。

 

料理だって、実際にお店で働いたりしてみると、

いつも同じ味で仕上げなければならない正確さが求められたり、

味の好みが異なる人にも平等に、「うまい!」って言ってもらえるような味付けにしたり、

みたいなことを考えなければならない。

まあ、これくらいなら、また自分なりに工夫すれば気持ちの良い答えが見つかるでしょう。

 

しかし、今日はどうしても気が乗らない。でも、お客さんがいるので料理を作り続けなければならない。

みたいなときはどうでしょうか。

気持ちの問題なのでどうしようもないのではないでしょうか。

人間なのですから、やりたくない時だってあるでしょう。

そんな時にも仕事として続けなければならない。それは苦しいことなのではないか。そう思います。

 

それが後々資産として残る努力がしたい

 

今僕はブログを趣味で書いていますが、

ブログで飯を食うって言う風になれば、また別の努力というか、

毎月毎月PVを稼ぎ続けるための努力が必要になるのではないかな、と思ったりします。

 

でも、こうやって書いてきたブログというものは資産であり、形として残るものであります。

京大卒ニートのphaさんもブログで書いていましたが、ブログというのはある程度書くとPVが安定してくる。

常に新規顧客が流入してきて、過去に書いたブログを読んでくれて、

それで稼ぐことができるようになる。みたいなことを言っていました。

それが資産として残るように努力していきたいものです。

でも、それも何十年も残るものではこの先なくなっていくでしょう。

phaさんのブログ→phaの日記

 

やっぱりお金を稼ぐってなると、また別の努力をしなければならないのは事実。

それが、なるべく短い期間になるように、

仕組みを整えていくことが必要なのではないかなと思います。

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